09 岩井賢二・七

●都内・某図書館前●

紅葉巴杏の住所を知ることは容易かった。
宮里の妻に頼んで彼のパソコンを使わせてもらい、スマホのバックアップを探す。
岩井はそこから紅葉巴杏の連絡先を手に入れた。

だが、すぐに連絡はしなかった。
巴杏はオカルトな理由で説得できる人間とは思えないし、今の状況では彼女が次の被害者であるという説得力が存在しない。
その為、警護もかねてしばらくは尾行することにした。

巴杏は大学生活を満喫しているように思えた。
まじめに勉強し、そしてほどよく遊ぶ。
そういうことを実践できている。

「…できる子だな」

それが岩井の感想だった。
授業が一通り終わると、あたりさわりのない挨拶を交わして大学を出て、帰宅コースではないT大付属高校へ向かう。

だが、彼女が前向きに生きているのかというとそういうわけでもないようだ。
帰宅コースではないのにT大付属高校へと赴き、その周辺を歩いた。その時の彼女の表情はいつもよりも研ぎ澄まされていた。
今日は図書館に入って昔の新聞を掘り返している。
その姿から彼女がはまだ過去の事件に囚われていることは一目瞭然だった。
そして尾行に気付かれていることもわかっていた。頃合いをみて図書館の前で彼女を待つことにした。

「なにか用ですか?」

巴杏は怒りも動揺もなくまっすぐにこちらに近づいてきた。

「岩井さん」
「覚えていてくれたんだね」
「私、そんなに物覚えが悪そうに見えますか?」
「俺の方がぱっとしないだろ?」
「そんなことはないですよ」
「そりゃどうも」
「それで……?」

巴杏が岩井を睨む。

「どうして付け回していたんですか?」
「仕事……ではないんだ」
「え?」
「宮里が亡くなったのは知っているかな?」
「宮里さん? 刑事さんですか⁉」

岩井の言葉で巴杏の表情が固まった。
どうやら知らなかったようだ。

「その件で聞きたいことがあったから来たんだ」

まさか「狙われているかもしれないので護衛させてくれ」とは言えない。
説得力のある根拠はないのだし、聞きたいことがあるのもまた事実だ。

「なんですか?」

驚きが抜け切れていない巴杏は素直に応じてくれた。

場所を変え、近くにあったベンチで自動販売機のジュースとコーヒーを買う。
ベンチに座っていたジュースを彼女へ渡す。缶コーヒーを一口のむ。

「さっそく、本題なのだが…。」

宮里との繋がりを聞く。
やはりT大付属高校事件で何度も話をしているようだった。

「では、萩堂という人のことは?」
「……一度だけ、宮里さんと一緒にいるところを見ました。霊能者さんですよね?」
「らしいね。どんな人だった?」
「女性です。ええと……」

と、巴杏が説明した容姿に岩井は驚いた。

「どうしました?」
「……ああ、すまない。もしかして、この人に似ていたかい?」
「というか、この人ですよ」

スマホに残していた彼女の写真を見せると巴杏はすんなりとそれを認めた。

「どうかしました?」
「ああ、いや。いいんだ。それで、この人はなにを話していたかな?」
「なにって……そうだ。弟の電話の件に興味を持ってくれていたんですけど、やっぱり霊がどうのみたいな話になって、真面目に聞いてないです」
「そうか」
「勧誘とかされなかったからいいですけど……この事件ってオカルト界隈で人気なの知ってます?」
「いや、知らないな」
「最悪ですよ。連鎖する呪いだとかなんとか。他人の不幸をなんだと思っているのか」
「まったくだな」
「……それで、宮里さんのことで私になにか?」
「ああ。なにかを見つけたらしいんだが、なにを見つけたのかがわからないんだ。だからあいつと接触した人物を巡ることにしたんだ」
「もう刑事ではないんですよね?」
「いまは探偵をしている」
「探偵?」
「探し物をするにはぴったりの職業だと思わないか?」
「そう……かもしれないですね」

探偵という言葉が巴杏のなにかに触れたらしく彼女はしばらく考え込んだ。

「紅葉さん?」
「ああ、すいません。どうぞ」
「宮里とどんな話をしたか覚えている限り教えて欲しいんだけど」
「そうですね。何度か会っていますし……長くなりますよ」
「わかった。」

●繫華街・雑居ビル内●

宮里の話を巴杏からきくために、居酒屋に向かった。和風な引き戸となった居酒屋の入り口なのだが、開かない。

「おかしいな。下の看板は付いていたんだが」

建付けが悪いわけではなさそうなので、鍵がかかっているのかもしれない。
「しかたない。別の店に行こう」
「そうですね。あっ、ちょっと待ってください、電話が」
「わかった」

すぐ後ろにあるエレベーターに移動し、ボタンを押したところで巴杏が言う。
バッグの中から聞こえてくるくぐもった着信音に岩井は頷く。
エレベーターに入ったら電波が悪くなる。

「岩井さん!」

見送るしかないかとすぐに近づき始めた階数ランプに未練を送っていると巴杏が緊張した声で岩井を呼んだ。

「どうかしたか?」
「……岩井さん、これ」

青い顔の巴杏に見せられたのはスマホの着信画面。
そこに書かれていたのは『智司』。
紅葉智司。
死んだはずの人物。
背後でエレベーターが到着した時の鈴のような音が響いた。

「……ぐっ」

全身に悪寒が走る。
岩井は瞬時に巴杏の手からスマホを奪い、開いたエレベーターの中に押し込んだ。
一階のボタンを押しながら、自身はエレベーターの外に出る。

「え? 岩井さん?」
「先に行っててくれ」

閉まり始めたドアの隙間でそのやりとりを済ませ、エレベーターが降りていくのを確認する。

「ふう……」

深い溜息を吐く唇は震えていた。
あの時に見た白い服の女が脳裏によみがえる。
不可避の死。

それがすぐ側にあるのかもしれない。

「はぁ……はぁ……」

鳴り続けるスマホ。
恐怖で震える全身を制し、通話をタップし、耳に当てる。
起こるのか。

不吉な音が左耳を襲った。
錆びた鉄扉を無理やり開くような重苦しくも高い不快音。
すぐには振り返れなかった。
だが、音は続く。
見ないわけにはいかない。

見た。

さっきまで開かなかった居酒屋の戸が少しだけ空いている。
中から手がかかり、むりやり押し広げようとしているようだ。
腐っているかのような青黒い手はこの世のものとは思えない。
その暗闇の中からこちらを見る目だけがはっきりとしている。

逃げなければ。

硬直していた思考がようやく動いた。
非常階段の鉄扉を押し開ける。
岩井は全力で階段を下る。
階上で雄叫びのような吠え声が響く。
足が階段を打つ音が一つ増え、そしてその速度はすさまじかった。
岩井はたまらず下の階の扉を開けて中に入った。

「くそっ、ここもか」

このビルは全ての階に飲食店が入っていたはずだが、ここも静かだった。
すでに感じている空気がここにも馴染んでいる。
こちらに逃げてきたのは失敗だったかもしれない。

「外と繋がる手段は……」

スマホを取り出して警察に電話をしようとしたのだが、繋がらない。

「くそっ!」

さっき電話が通じたのに、どうしていまは使えない?
電波障害? こんなにタイミングよく?
電波妨害? 一般人を殺すのにそんな技術を使う理由がどこにある?
ただ人を殺すだけのことに、どうしてこんな超常的な理解不能さが必要なのか。

「落ち着け……落ち着け」

この不可解さの中で旧友は死んだ。
混乱していてはその轍を踏むだけだ。
それは、この流れを止めようとした彼の想いを踏みにじることにも繋がる。

「やれることはなにもないかもしれない……が」

この連絡は巴杏にやってきたということは狙われているのは彼女で間違いないだろう。
岩井は巴杏のスマホを床に投げつけ、踏みつけた。

念のためにと自分のスマホも破壊する。
宮里の推論が合っているならば、これでもう、どこにも繋がらないはずだ。

冷静に考える暇はなく、人ならざるモノは非常階段から即座に襲ってきた。
人の形はしている。青黒い肌をした腕ははっきりと見える。
だが、不思議とその顔や体に目を向けようとすると、途端にはっきりしなくなる。
影に覆われているというわけではない。ぼんやりとした霧状のなにかというわけでもない。
見ているはずなのに記憶に残らない。
そんな不条理な作用が脳に及んでいる。

「うおおお!」

岩井は雄叫びで自身を鼓舞すると、人ならざるモノに飛び掛かった。
なに、これでも一応、警察にいた時に護身術は体得済みだ。
そう簡単に……。

「ぐうっ!」

まさかと思った。
瘦身ではあるが大人の岩井を青腕のなにかは簡単に持ち上げ、そして床に叩きつけたのだ。

「ぐふっ!」

一瞬にして硬い床に背中を打ち付けられ悶絶する。
なんとか後頭部をぶつけることだけは避けたが、肺の空気が全て搾り出てなにもできなくなった。
なにかしなくてはと焦っても体はなにも動かない。思考が肉体を空滑りしていく。
視覚だけが生きている状態で、岩井はそれを見た。
腕以外は判然としない状態のそれの目を。
そういえば、最初に見た時にも目だけははっきりと見えていた。
恐怖に塗り固められ血走った目。
この目を見たことがある気がする。
そうだ、一瞬だけ。
写真だ。

宮里が見せようとして、断って、それでも一瞬だけ視界に映ったそれは……死体の写真。
恐怖にひきつった……。

写真に張られた付箋紙に書かれた名前は確か……。

まさか。

「紅葉智司君……か?」
「っ⁉」

岩井が名前を呼ぶと、青腕はびくりと震えて動きを止めた。

「そうなんだな? 君は紅葉智司君なんだな?」

人ならざるモノ……智司は無言のまま岩井から離れていこうとする。

「どうして……こんなことに……」

まだ体がうまく動かない。

「っ!」

無言のままに智司は体を震わせ、そして岩井自身も心臓を鷲掴みにされたように全身が固まった。
この気配には覚えがある。

いつの間にか、店舗のドアが開いていた。
そして一人の女がそこに立っていた。
何年も放置されたかのような長い黒髪が顔を隠す。
汚れた白装束。
土と血に塗れた手と足。
あの時の、女だ。

「…貞子」
「え?」

智司が女の名前を呼んだ。
貞子?
葦江伊佐未の犯行時のカツラと同じ髪型の女。
貞子の犯行を止めるために葦江は被害者たちを殺した。しかし、いつの間にか貞子の代行をするようになっていた。
その証拠があのカツラ。
葦江も自覚せずに使用していたあの黒髪のカツラ。
では、もしかして、あそこにいるのは貞子ではなく、葦江なのではないか?
いや、違う。

髪の隙から覗く視線を浴びて、岩井はそれを確信した。
あれは葦江ではない。
貞子だ。

「ここ……までか」

淡い期待は消え失せた。
その後に思ったのは紅葉巴杏のことだった。
彼女は無事に逃げられただろうか?
それだけが気がかりだった。

もし助けることができたなら、自分の能力が役に立ったことになる。
犯行の後始末ではなく、事前に防ぐ。
誰かの命を救う。

宮里にとっても、それは望みだったはずだ。
そして、俺の望みも同じだ。

わずかな満足を恐怖が塗り潰そうとする。
それを守るために、岩井は貞子を睨む。

「グウ……」

そのとき、変化があった。
智司の背が岩井の視界を埋めたのだ。貞子の前に立ちはだかる智司。

「お前は出てくるな!」

割れ声の雄叫びとともに貞子に突進し扉向こうへ押し込めようとする。
背の向こうから見える貞子には変化がない。
ただ、智司の突進を何かで防いでいるようだった。
触れそうで触れない。そんな距離で押しとどめられた智司は低く呻きながら力をこめている。
貞子は白目の多い瞳をむき出しにして智司を見下ろしている。
なにか……する。

そう感じたとき、新たな手が貞子を背後から抱いた。
微動だにしていなかった貞子が大きく揺れた。

その白い目から感じる冷たい圧力はそのままに、智司に押されてドアの向こうの闇に飲まれていく。
貞子を抱く白い腕が、それを助けているのだ。

「葦江……さん?」

なぜ、そうと感じたのかわからない。
だが、その白い腕と智司に助けられたのだということだけはわかった。

「次はもうないわ…。」

意識を失う寸前、葦江の声が聞こえた気がした。

気が付くと泣き顔の巴杏と救急隊員、そして警察官に囲まれていた。
無事に助かったようだ。

事情を尋ねる警察官に、岩井は急場しのぎの物語を作って説明した。
店の前で変な男を見つけ、慌てて巴杏をエレベーターに乗せて、自分はここに逃げたのだが追い詰められ、気絶させられてしまったということにした。

エレベーターで無事に一階に辿り着けた巴杏は当然なにが起きたかわかるはずもなく、それは警察官たちも同じだ。
巴杏のスマホを奪ってしまったことだけはうまく説明できなかったが、焦っていたからとだけ言い、壊してしまったことを謝罪してうやむやにしてしまった。
警察官はその話を信じた。
隠し事の気配を察したのか巴杏は不満顔だったが、追及してくることはなかった。
あんなことに、彼女が足を踏み入れる必要はない。
そしてそれはおそらく、あそこで出会った智司も同じ気持ちのはずだ。
これで終わり……であればよかった。

だが、そうではない。

『次はもうないわ』

気絶する前に聞こえたあの声をきっかけに岩井の使命感には火が付いたのだった。