02 岩井賢二・弐

●都内葬儀場●

 本当は車で待っていたかった。
 だが離職前の最後の頼みだと言われれば断ることもできない。
 職を離れるとはいえ、これからもなんだかんだと頼りにすることが予想できる相手だ。
自営業になる自分の生活と友情を守るためにも億劫さを乗り越えることは必要だった。

 とはいえ、気分までも明るくはできない。
 明るくできないからこそ岩井はこの仕事を離れる選択をしたのだ。
 
 雨が止んだ後だが、雲は空に重くのしかかったままだった。
 葬儀場の駐車場で車を止める。
 そして当たり前のように車内に常備してある喪服に着替える。
 嫌な仕事だと思うのはこういうところだ。
 そんな嫌な稼業から離れきれない自身の業の深さを自覚して、岩井はため息を零した。

 葬儀場から読経が漏れ聞こえてくる。
 記帳を済ませて中へ入る同僚を見送った。
捜査を担当しているわけではない岩井は中にまで入る必要がない。参列者の顔ぶれを確認する必要はないし、疲れ果てた家族の表情を見る気も起きない。
 関わる必要のない陰気まで吸い込んでいては息ができなくなる。

 岩井は、喫煙所を探してそこに逃げ込んだ。
 葬儀場の入り口から隠れるような場所に灰皿スタンドが設置されていた。
 湿気た空気を追い払うように火を点け、煙を吐く。
 肩の力が抜ける感触と喉を抜ける苦味。ほんのわずかな解放感にほっとする。
とはいえ、今後は警察として捜査することはできなくなる以上、いままで以上に印象には注意を払わなければならない。嫌煙ブームの世の中でヤニ臭い空気をいつまでもまとってはいられないだろう。

「なんだかいい未来を少しも思いつかないな」

 一人とはいえ、苦笑するのも場違いだ。
 代わりに煙を深めに吸い込み、ヤニの苦味で顔をしかめた。

「あの……」

 憂鬱な気持ちで曇天を見上げていると声がかかった。
 制服姿の女子高生がそこにいた。
 利発そうな少女だ。姿勢もいいし理知的な目つきをしている。文武両道の優等生。だが真面目一途というわけでもない。髪型にこだわりを感じるところからファッションや遊びにもある程度の融通が利くのだろう。

 普段は。

 いまは目元が赤く腫れ、髪も少し乱れている。
 纏う空気も淀んでいる。
 哀しみの澱(よどみ)が深く積もって、少女の影を濃くしていた。

「警察の方……ですか?」
「ん……すまない。元刑事になる」
「なら、どうしてここに?」
「今日はね、昔の同僚の頼みで運転手をしただけなんだよ」
「そうですか、すいません」
「いや」

 少女は謝ったものの、この場を去ることはなく葬儀場の壁を見上げた。
 疲れ切っているようにも、考えに浸っているようにも見える。
 岩井を刑事と疑ったということは例の事件の被害者家族なのだろう。
 そろそろ焼香が始まるのではなかろうか。

「戻らないのかい?」
「そうしないといけないのはわかっているんですけど……実感がなくて」
「そういうものなのだろうね」
「刑事さんなんですよね? わからないんですか?」
「わかるのは事実だけだよ。心の中までわかると言い切るほど傲慢ではないから」
「でも、わかったふりをするのもお仕事なんじゃないですか? その方が話を聞きやすくなりそうだし」
「その通りだね。君は賢い」
「どうも。そういえば、刑事さん」
「元、刑事だよ」
「だったら、どう呼んだらいいんですか?」
「岩井だ。岩井賢二」
「岩井さん」
「それで、君は?」
「紅葉巴杏です」
「よろしく紅葉さん」
「よろしく岩井さん」

 この年になって少女と改まって挨拶するという経験はなかなかない。
 なにより、相手の不幸に屈しない気高さを感じられて年相応に思えなかった。
 感想としては奇妙な挨拶だなと思った。

「それで、なにか聞きたいことがあるのかい?」
「これ、どう思いますか?」
「うん?」

 少女……巴杏が見せてきたのはスマホだった。
 画面に映し出されているのは着信履歴?
 いや、これは写真か?

「消えたら困るからスクショで記録しておいたんです。これ、どう思いますか?」
「どうって……すまない。意味が分からない」
「どうして?」
「悪いが、君のご家族の不幸は担当じゃなかったんだ。だから詳しいことはわからない」

 あの日以来、事件の可能性のあるものに踏み込むことが恐ろしかった。
 何気ないことでもその奥には見透かすことのできない闇がある。
 その闇の奥から白装束の女が現れてくる気がして、岩井は踏み込むことができないでいた。
 そのため、以前のように頭が働かず、犯人のみを見つけ出すあの超推理とでも呼ぶべきものが鳴りを潜めてしまった。
 能力を失った岩井は警察組織の中での自分の居場所を見失ってしまった。

「そう……ですか」

 巴杏の言葉で岩井ははっと我に返った。
 思考が過去に飛んでしまっていたようだ。

 ふと巴杏を見ると、巴杏は岩井の返答に失望しているようだった。

 それでも彼女はこの不幸には謎があると信じることで前へ進もうとしている。
 
 そんな彼女に思わず聞いてしまったのは、ただの好奇心だった。

「その着信履歴に何の意味があるんだい?」
「……この着信履歴の日付がおかしいんです」

 着信履歴とともにある名前。それがおかしいのだと彼女は言う。
 その名前は紅葉智司。
 つい最近、見た名前だ。
 そうだ。
 この葬儀場の表にかけられていた名前だ。