貞子M EPISODE0The era of carrying death

01 岩井賢二・壱

●東京都・某病院食堂●

「葦江さん、あなたが犯人だ」

岩井は静かに断言した。
静かな食堂の中で誰にも聞こえないようにひっそりと告げる。
犯人と名指された女は静かに微笑み、そして首を振った。
その様子は彼女を亡霊のように思わせた。

葦江伊佐未(あしおりいさみ)。
それが彼女の名前だ。

「証拠はあるんですか?」
「あります」

葦江には確固たる自信があったのだろうが、岩井の断言でその表情が揺らぐ。

「たしかに現場にはあなたの指紋などの直接の痕跡を示すものはありませんでした」
「それなら……」
「ですが、あなた一つ、重大なミスを犯してしまっていた。それさえなければ、今回の事件もあなたは証拠不十分となったことでしょう」
「どういう……ことでしょう?」
「髪の毛、ですよ」
「髪の毛?」

それを聞いて、その女性は軽蔑するように笑った。
いや、もしかしたら怒っていたのかもしれない。
その言葉は彼女にとってとても繊細な部分に触れるものだからだ。

「ご存じだと思っていましたけど? 私は……」
「ええ、あなたは抗ガン治療の影響で頭髪を失っていらっしゃる」
「それなら……」
「ですが、髪の毛です。その……カツラの」
「え?」
「今回の現場で見つかった身元不明の髪の毛。これと一致するものがたった一つだけ見つかったのです。それが……」
「そんな。ありえないわ」
「なぜですか?」
「だって、私の持っているカツラは全部人工毛ですもの。区別なんてできるはずがないわ」
「いいえ」
「え?」
「あなたが犯行の時に着けていた黒髪ロングのカツラは人毛でした」
「そんな……そんなはずない!」
「いいえ。すでにこちらで手に入れたものと調べた結果、同じものと断定しました」
「そんな……でも……まさか……」

恐ろしいほどに冷静だった彼女が初めて動揺を見せた。
彼女が見せ始めた動揺の中に新たな真実がある気がして、岩井はそれを冷静に観察していた。
だが、彼女は迂闊な単語を口走る様子などなかった。
さすが、というべきなのかもしれない。
さすが、連続殺人犯……だと。

『植樹連続殺人事件』
何かの儀式であるかのように死体の首に枝を突き刺していることからそう名付けられた。

犯行現場は都内。
被害者同士の繋がりはほぼない状態で、現場は証拠らしい証拠も残されていないことから、捜査は初期の段階で暗礁に乗り上げていた。

その一方で、特徴的な死体の様子からワイドショーが騒ぎ立てたために警察としても無視することができなくなり、警視庁が渋々捜査に乗り出した事件であった。
また犯人が殺人に使用したと思われる毒には未発見の成分が含まれていたことから、なんらかのテロ組織に繋がる可能性もあるとして、公安から岩井が派遣されることとなった。

地元警察に警視庁に公安。
一つの捜査班に三つの組織が存在したのだ。
権力の縄張り争いが起こり、その中で一人しかいなかった岩井の肩身はかなり狭かったのだが、おかげで誰にも邪魔されることなく深く考える時間を得たとも言えた。

結果として、犯人の行動半径が山手線内で収まることに気付き、そこからは地道な捜査の末、葦江伊佐未に辿り着くことができた。

彼女を容疑者候補の一人として挙げた時には周りから白い目で見られた。
末期ガンの患者である葦江にそんな体力などあるはずもなく、また毒に関する知識があるような経歴でもない。
確かにその通りなのだが、岩井はどうしても彼女を候補から外すことができず、追いかけ続けた。
岩井は刑事の勘だと思っていたのだが、誰もそれを認めてくれることはなかった。
事件が異常だからと安易に彼女を容疑者と決めつけていると陰口を叩かれていたのは知っていた。
公安本部にも支持されず、岩井は危うい線を辿り続けた。
それでも岩井の推察を信じてくれる仲間はいたので、孤独ではなかった。
そして、ついにこの時が来た。

葦江にとって思わぬ事実だったようで、いまだ茫然としている。
それにかまわず、岩井は言葉を続けた。

「実際、あなたの隠ぺい工作は完璧だった。そのカツラの毛が見つからなければ完全犯罪が成立していたかもしれない」
「…………」
「しかし、どうしてもわからないこともあります」
「…………」
「あなたは、どうしてこんなことを?」
「…………」
「犠牲者たちは誰一人、あなたとの繋がりがなかった。だからこそ、あなたを犯人と特定することさえ大変だった」
「…………」
「どうしてですか?」

葦江は沈黙を続ける。
黙秘か?
目が合った。
彼女は動揺を呑み込んだ笑みを浮かべていた。
背筋の冷たくなる笑みだった。
もはや彼女の目はこの世を見ていない。
それなのに、岩井を見つめている。

「葦江さん?」
「ふ、ふふふ……そういうことなのね。それなら、私のしたことは? ふふふふふふ……」
「葦江さん? 大丈夫ですか?」
「ふふ……ええ、大丈夫よ。刑事さん、いえ、岩井さんでしたよね?」
「……ええ」
「あなた、自分のしてきたことが全くの無駄だと感じたことがありますか?」
「……ありますよ」
「そうですか。では、こんな気分になったこともあるのかもしれませんね。まるで道化。無駄でしかなかったなんて」

「葦江さん、ご同行願えますか?」

葦江の言っていることの意味がわからない。
彼女は錯乱しているのだと岩井は判断した。
まだ彼女には聞かなければならないことがたくさんある。
現場に残されたカツラの毛から彼女に繋がることはできたが、まだまだ不明な点は数多くある。

どうやって被害者を定めた?
どうやって被害者に近づいた?
どうやって毒を手に入れた?
どうして死体に枝を刺した?

わかっていないことの方が多すぎる。
彼女を特定することができたのは岩井の特質的な「推理能力」のおかげであるが、法で裁くには証拠不十分で。
弁護士次第ではどう転ぶかわからない状況だ。

「もちろん。もう逃げも隠れもしません」

そう言った葦江を見た瞬間、岩井は自分の推理に一抹の不安を覚えた。
なにか、重大な事実を見逃してしまっているのではないか?
いや、そんなことはないと岩井は自身を励ます。
証拠固めが弱いかもしれないが、彼女が犯人で間違いないはずだ。
いま、彼女自身がそれを認めた発言をしたのだ。
大丈夫だ。
間違っていない。
そのはずだ。

「葦江さん、なぜですか?」

決定的瞬間のこのときに、ここまで不安になったのは初めてだった。

「岩井さん、信じてくれますか?」
「なんでしょう?」
「私はね。あの人たちのために殺したんですよ」

葦江はそんなことを言う。

「よりマシな不幸になるように」
「何を言っているんですか?」

わかるはずもない。
理解できるはずもない。

「わからないでしょうね。死から逃げられないと気付いてから見えるようになったことなんて」
「わかるわけがないでしょう」
「わからない方がいいのかもしれないわ。……結局は、なにもかもが無駄だったんだから。いえ……」

言い切りかけた葦江だったが、不意に否定で止めた。

「わかってしまったから、あなたは私を見つけることができたのではないのですか?」
「え?」
「あの忌々しい存在は、私たちが抗うことを望んでいるのかもしれない。抗わせて、そして最後に嘲笑するために」
「葦江さん?」
「あなたは私を見つけた時のことを覚えていますか?」
「それは……」

葦江の指摘は岩井にとって弱点でもあった。
自身の特異な推理……
過程を飛ばして犯人を見つけ出す。難解な計算式を見て即座に答えを書くような行為。
旧友には「超能力だ」と冗談交じりに笑われる能力である。
そして最大の問題は、たとえその答えが正解だったとしてもどうしてその答えになるのか当人にもわかっていないということだ。
だからこそ、その過程を求めて岩井は走り回ることとなる。
いままでも、そして今回もそうだった。
葦江は、そんな岩井の能力を見抜いているかのように言葉を紡ぐ。

「不可能なことが可能となった。そんなありえないことが起きるきっかけはどこにあったのかしら?」
「それは……」

山手線に乗って犯人の思考を追いかけていたときだった。
奴はなにを考え、なにを基準に被害者を見定めていたのか?
見つからない被害者の共通点はなんだったのか?
ひたすらにそのことを考え続けていたとき、気が付くと葦江は隣にいた。
岩井と同じようにどの駅でも降りることのない彼女を見た瞬間、犯人だとわかった。
それを理由だと言えるのか?
いや、ここで弱気を見せるわけにはいかない。

「大丈夫です。ちゃんと、理由があります」
「そう。それならいいのだけど」

笑う葦江は岩井をどこかに誘っているかのようだった。
だが、それに呑まれるわけにはいかない。
連続殺人犯の暗い精神世界に引きずり込まれるわけにはいかない。木乃伊(ミイラ)取りが木乃伊になるわけにはいかないのだ。
連れて行くのは、こちらの方だ。
それなのに、先を越される。

「行きましょう。岩井さん、さあ」

両手を差し出しているのは葦江なのに、まるで岩井がどこかに導かれているかのように感じた。
そんなわけがないと、彼女の背を押す。
手錠はしなかった。場所が場所だということもあるが、彼女の足はふらついていて、逃げるだけの体力ももはやないと判断した。
何度も言うが、彼女は末期のガンで長くはない。
裁判を待たずして、彼女は病床で最期を遂げるだろう。

全ての真相は闇の中。
果たして、本当にそれで良いのか?

自身が導いた答えの意味が分からないのは、今日が初めてではない。
そういう場合は、時間の許す限り自分の答えの正しさを証明するための調査を続けた。
だが、今回は許された時間も短かった。

真相解明の機会を逃したくないという思いから、岩井は逮捕後も葦江の事情聴取に時間を割いた。
聴取は彼女の病室で行われた。
逮捕後ほどなくして彼女は動けなくなり、起きていられる時間も日に日に短くなっていった。
葦江伊佐未は、なんのために残りの命を懸けてあんなことをしたのか。
そしてその方法の詳細を少しでも手に入れなければ……。
自身の能力を証明するためにも、岩井は強い使命感を持って彼女の病室に入った。

そして、それを見ることになる。
どうしてその姿に恐怖したのか、いまでもよくわからない。
あの姿よりももっと恐ろしい死に様は今までも見て来ているし、もっと猟奇的な殺人犯に対峙したことだってある。
だが、あの存在の前ではそれらの経験が全て無駄なのだと感じさせられた。
人にとって真に畏怖する対象は「未知の存在」なのかもしれない。

そこにいたのは葦江伊佐未のはずだった。
彼女自身はベッドに眠っている。
そして生気の失せた白い顔で眠る彼女の前にそれを見下ろす背があった。

白い衣装の、長い黒髪の女。
その姿を岩井は知っている。
角度は違えど、何度も確認した監視カメラの映像。
犯行現場の近くで記録された葦江伊佐未の姿。
その白装束のような衣服だけは、いまだに彼女の持ち物から見つかっていない。
それを着ているこの女は誰だ?
葦江伊佐未ではない?
では、犯行現場にいたのはこの女か?
となると、犯人も葦江伊佐未ではない?
岩井の中に在るナニかが軋む音をさせた。
葦江伊佐未が犯人であるという確信は、音を立てて崩れた。

聞かなければ、お前は誰だと、この事件に関わっているのかと……。
いざとなれば拘束してでもと……頭だけは動く。

「…………」

だが、声は出なかった。
なにかを喋ろうとしても喉に指を突っ込まれているような不快感があり、言葉を紡げなかった。
体は小刻みに震え、立っているのがやっとだった。
岩井の見ている前でその背は葦江を見下ろし続け、彼女は眠り続ける。
やがて、葦江が目を覚ました。

「ああ……来たのね」

彼女は自分を見下ろすなにかにそう告げた。
そして視線をずらし、岩井を見た。

「あなたにはどうにもできないから、忘れなさい」

葦江は岩井にそう言った。
慰めの言葉だと、なぜかわかった。

「ぐっ……」

葦江はまるで誰かに首を締めあげられているかのように苦しみ始め、やがてこと切れた。
岩井がようやく悲鳴を上げることができたのはもはや全てが終わった後だった。

その後、葦江伊佐未の死は自殺として片づけられたのだった。